すべては地球の命とつながる
人はこの人生の中で様々な「死」で命を見送り、命の儚さを体感していきます。
私達生きとし生けるものにとって、自分が持つ時間は有限です。
そして人や愛した動物などであれば「死」の後に心から祈る今がここにあるのだけれど
相手が地球となるとその「死」に対しては心から【祈れる】今があるだけとなります。
地球も一つの生命体であり、一つの命をもつものです。
生まれたからにはいつか死を迎えます。
それが早いか、遅いか、「いつ」になるのかはその地球に住まい、地球に甘え、地球をどう扱っているかによって変わります。
私達は今、大きな選択を突きつけられている。
それは間違いないでしょう。
物質社会から精神社会に移行する時、波動は高くなり、意識の具現化は早くなります。
最近思ったことがすぐ叶う、願ったことがすぐ起きる、
あれ?こんなにすぐ叶うものだっけ?と思っている人も少なくないと思います。
それはそれなりに波動が高くなって、軽くなってきたからということがあります。
ポジティブ、ネガティヴという言葉がありますが、本来これはどちらもありません。
私達はそのどちらも体感したくて生まれてきたのだから、そのどちらも私達の魂にとってはこの世で体感できる喜びです。
なのでポジティブに偏るのも実はつまらないことであるし、
ネガティヴに囚われているのもそこに囚われていたいという幸せがあるからです。
そんなことあるかと言われても、そんなことあるのでわからない人はわかるまでポジティブシンキングや、ネガティヴシンキングといわれるものを堪能し尽くしてください。
それもまた無駄ではありません。
私達は日々「幸せ」というものに心を奪われ各々が思う幸せを求めて生きているのだけど、
それもこの地球という惑星が存在してこそのものだということは日々忘れがちです。
むしろ忘れさせるような仕組みを作られているので仕方ないといえば仕方のないことですが、
そろそろ「おかしくないか?」と気が付き始めた人が増えて来たのではないでしょうか?
海を見ても、大地を見ても、山を見ても、人間はなんて無体なことをしているのか。
そこに住む生き物たち、私達もその中の一つの生き物でしかないのに、
地球の命そのものまでどうにかできると思い込んでいるところはないだろうか。
「愛」が大切だと誰もが胸に抱いているのだけど
その「愛」が個人個人の欲を満たすものでしか伝えられていないのならば、
それは愛=幸せではなく、愛=不安もしくは恐怖をごまかすものというものになっている筈です。
それは愛でしょうか。そして幸せなのでしょうか。
欲しいと思わされているものが恐怖や不安から欲しがる「愛」や「幸せ」を煽るものであれば、
本来の愛や幸せからはかけ離れたものであることを気がつかねばなりません。
本来の幸せとはなんでしょうか。
「未来に可能性がある」
この一言に尽きるのではないかと思います。
たとえばお金がどれほどあろうと、そのお金を一人抱え込んで死んだとて何も幸せではありません。
それはお金という数字に心が取り込まれているだけにすぎません。
そのお金をどう使えるのか、そのお金でどれだけの可能性を生み出していけるのか、また可能性を共に誰かと分け合いう生み出していけるのか、
そんなことを考え、そしてよりたくさんの可能性を生み出す動きをした時、人は大きく深い幸せを感じるのだと思います。
もう一度言います。
愛=幸せであるならば、それは愛が生み出す可能性を感じて生きるということです。
その愛を体感し合う場はどこでしょうか。
家庭、学校、会社、趣味の場、様々なところがあるでしょうがそこはすべて「地球」です。
この地球がなければ愛も幸せもすべてが宇宙の塵となります。
私達の身体も過去も未来も何もそこには残りません。
この地球の期限がどうなるのか、いつまでぐらいなのか、そしてどうなるのか。
ハッキリとは明言できなくても、急がねばならないことだけは心を突き動かされるように感じているのではないでしょうか。
同志達よ。
あなたの根っこが本当の愛に根付いたものであるのならば、共に可能性を分かち合うことで可能性を紡いでいきましょう。
この世はすべて波動で成り立っています。
この世界を本来の愛からの波動に戻していくことが急務となっています。
目覚めたまえ。
神と同根である「和」の国の民達よ。
私達は万物の霊と同体である。
生かされている命がある限り、可能性を失うかもしれない選択を「させられる」必要はない。
その目と心で「本質」を見抜いてください。
長くなりました。この辺で。
今日もあなたの笑顔と涙がとても綺麗な日でありますように…。